2016年01月11日

エイジノミクス

Ageing とEconomicsの合成語(造語)。エイジノミクス研究会(共同座長:吉川洋、八田達夫)が提唱する概念で、エイジング(高齢化)という人口構造の変化をイノベーションの機会と捉え、持続可能な経済のあり方を考察する経済学・経済政策のこと。
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2015年10月11日

シンポジウム 「65歳以上をどう生きるか! どう働くか!」 のご案内

<開催趣旨>
働きたい、働かざるを得ないシニア・プレシニアの65歳を過ぎてからの
就業環境と働き方、そのふところ事情をデータと具体的事例をもとに探ります。
○開催日時:2015年11月11日(水)13:30~16:30 [受付開始 13:00]
○開催場所:東京都千代田区内幸町ホール(都営三田線内幸町駅徒歩5分)

<プログラム>
○ 基調講演: 現役世代にも考えてもらいたい65歳を過ぎてからの働き方
岡本憲之氏(JST高齢社会領域アドバイザー、高活協副理事長)
○ パネルディスカッション テーマ:~シニアの働き方とふところ事情~
コーディネータ:柳沼 正秀氏(高活協理事・ファイナンシャルプランナー)
パネリスト:
澤木明氏(ファイナンシャルプランナー、社会保険労務士)
霧島誠氏(アクティブシニア就業支援センター「わくわくサポート三鷹」所長)
高平ゆかり氏(㈱マイスター60 常務取締役シニアビジネス事業本部長)
○定員:200名 ※定員になり次第、締め切らせていただきます。
○参加費:500円 ※当日、会場にてお支払いいただきます。
○主催:(一社)高齢者活躍支援協議会(高活協)、
シニアセカンドキャリア推進協会(SSC)    
○後援:高齢社会NGO連携協議会、NPO法人高齢社会をよくする女性の会
○お問合せ:(一社)高齢者活躍支援協議会事務局
メール:info@jcasca.org  TEL:03-6661-0018
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2015年09月23日

2015年9月  M.フリードマン「資本主義と自由」読書ノート(未定稿) - 松井幹雄

この本の初版は1962年に出版されたが有力新聞の書評欄に登場することはなかった。この時期のアメリカで、大きな政府を標榜する福祉国家論やケインズ主義の勝利は、アメリカの自由と繁栄を脅かすのではないかと危惧し当時の経済思潮に反旗を翻したのがM.フリードマンであった。孤立した少数派で学者仲間の大半から異端視されたが、時代は動きその流れは速まっていく。専門書ではなく一般向けに執筆された本書は、やがてベストセラーとなりM.フリードマンは1976年にノーベル経済学賞を受賞している。そして、その時から40年の歳月が流れた今日も『資本主義と自由』は、その新鮮さを失わない。『選択の自由』(1980)と共に彼の代表作である。

1・自由人にとっての「国家」
国家とは個人の集合体に過ぎない。一つの、実体あるいは生命体と見立てるのは間違いであり、擬制である。政府とは一つの道具・手段であり、それ以下でも以上でもない。国家目標も一人一人の目標の集合体としてしか認められない。
*これは、企業は「契約の束」というアメリカ経営学の法人擬制説と類似の見方であり、アメリカの個人主義と集団・組織に関する伝統的な見方、自由主義の文化を継承している。因みに、人類学者のE.トッドは「近代性によって土地から離脱させられた農民層の家族制度は、きわめて多様な価値観を担っていたが、自由主義的もしくは権威主義的、平等主義的もしくは不平等主義的なそれらの価値は、近代化期のイデオロギーによって建築材料として再利用された。・・・アングロ・サクソン的自由主義は、イングランドの家族における親子関係の特徴である相互の独立性という理想と、兄弟関係における平等主義的基準の不在とを、政治領域に投影したものである」と述べている。E.トッド『帝国以後』p80

2・政治的自由と経済的自由
経済的自由は、広義の自由の一構成要素であるが、それ自体が一つの目的になる。さらに経済的自由は政治的自由を実現するために欠かせない手段である。政治的自由と経済的自由は不可分であり、この両者を切り離して論じることはできない。18世紀後半から19世紀初めにかけて自由主義の名のもとに展開された運動は、社会における自由を究極の目標に掲げ、社会の主体は個人であると主張した。経済に関しては、国内では自由放任を支持し、経済への国の関与を減らして個人の役割を拡大しようとした。国外では自由貿易を支持し、世界の国々を武力のよらず民主的に結びつけようとした。また政治に関しては、代議制と議会制度の確立、国家の裁量権の縮小、市民権の保護を訴えた。(29)後述するようにM.フリードマンの説く新自由主義の経済学は、この初期の自由主義への回帰、原点復帰への強い志向を読みとることができる。
M.フリードマンは、「歴史を振り返ると、政治的自由と自由市場の関係は一つしかないことがわかる。いつの時代のどの国でも、政治的自由が大幅に保障されながら、経済活動の大半を展開する場として自由市場にあたる者が用意されなかった例は存在しない。人類は長きにわたり圧政、隷属、困窮の中で生きてきた。19世紀から20世紀初めにかけて西欧は、歴史の流れの中で顕著な例外といえる。このときに自由市場が登場し、また資本主義的な制度が発達し、それと共に政治的自由が登場した」と述べている。(40-41)
*どんな政治体制であっても経済体制は自由に選べる、政治と経済は別物であるという見方がある。現在の中国は、「社会主義市場経済」、つまり政治的には社会主義(実際には中国共産党による一党独裁体制)、経済的には市場経済という建前に立っている。「計画経済を主とし、市場調節を補とする」のが社会主義経済の常識であった。しかし、ソ連社会主義経済体制崩壊の経験を踏まえて、社会主義市場経済においては、私営企業と商品経済の発展、その市場調節機能が中心となり、それを裏付ける近代的工業の発達が図られ、従来資本主義的と見なされていた不動産の売買、株式会社制度や企業経営の自由が保障されるようになった。しかし、この建前が今後どのような意義を持つかについてM.フリードマンは否定的である。
政治的自由と経済的自由とは論理的にどうつながっているのか。M.フリードマンは「歴史的証拠があるというだけでは十分な論拠とはいえない」と述べている。(44)しかし、政治的自由の論理と経済的自由の論理は、異質の目標(経済が資源の最適利用、効率である荷に対し、政治が正義、公正、平等)を対象にしており、「相互作用」、「相互依存」という関係性の論理以上ものを想定するのは間違っているというべきではなかろうか。
*M.フリードマンは、2002年の改訂版の前書きで次のように述べている。返還前の香港が私に一つの教訓を与えてくれた。経済的自由は政治的自由と市民の自由を実現する必要条件だが、政治的自由は、経済的自由や市民の自由の必要条件ではない。政治的自由は、状況によっては経済や市民の自由を促すが、状況によっては拒むこともある。このように考えると、本書では政治的自由が果たす役割の扱いが不十分だった。(9)

3・自由主義と平等主義
各自が自分の考えに従って、その能力や機会最大限に生かす自由を尊重し、このとき、他人が同じことをする自由を阻害しないことだけを条件とする。このことはある点で平等を、ある点では不平等を支持することを意味する。(352)自由主義者は、権利の平等・機会の平等と物質的平等・結果の平等との間に厳然たる一線を引く。自由な社会が他の社会より物質的な平等をもたらすのはよろこばしいことではあるが、それは、自由社会の副産物であって、自由主義を正当化するものではない。しかし、平等主義者が、「誰かから取り上げて別の誰かにあげる」ことを認めるのは、目標を達成するための効率的手段からではなく、「正義」からなのだ。この点に立ち至った時、平等は自由は平等と真っ向から対立する。ここでは平等か自由かのどちらかしか選べない。つまり、平等主義者であると同時に自由主義者であることはできない。(353)
*M.フリードマンは所得の再配分を目的とする累進課税に反対する。(314)このような税は強権でもってAから引きはがしBにあたえるというあからさまな例であり、個人の自由に真っ向から反する。また現在の所得配分政策が効果をあげていないばかりか、むしろ不平等を助長している可能性がある。(311)対案は、基礎控除を上回る所得に対する一律税率の適用である。さらに法人税は打ち切る。企業の所得は株主のものであり、株主は其れを納税申告に含めなければならない。(314)
フリードマンは、所得分配を変えるには、税金ではなく不平等を生む原因となっている「市場の不完全性」、つまり独占、関税、特定集団に有利な法的措置など取り除くことである、と述べている。(317)また教育受ける機会の拡大は、不平等を減らすうえで大きな効果がある。

4・自由社会における政府の役割
市場の役割は、個人の多様性を認め、強制によらず合意を導く役割を果たすことである。これに対し公に政治的手続きを通じて何かを行う場合、合意形成に時間がかかり、少数意見を多数意見に従わせざるを得ない。殆どの問題についてイエスかノーをはっきりせねばならず、それ以外の選択肢は、あっても限られている。さらに政治の場で下される結論は最終的に法律の形にされ、あらゆる集団に一律に適用されるのである。(66)
市場と対比した政府の役割は、市場にできない機能、即ちルールを定め、守らせ、係争があれば仲裁する役割を引き受ける。また市場でできなくはないが主に技術上の理由から市場ではうまく行かないこと、そして市場の不完全性、外部効果が存在する場合である。列記すると以下のようになる。M.フリードマンは、現在アメリカで連邦政府や州政府が行っている事業、あるいは先進各国の政府が手掛けている事業の多くはやめるべきである。政府が介入するのは、当事者に代って別の誰かが決断することを是認しているからだが、自由主義者にとってこれは受け入れ難い考え方である。
法と秩序を維持する、財産権を明確に定める、財産権を含む経済のルールを修正できるようにする、ルールの解釈をめぐる紛争を解決する、契約が確実に履行される環境を整える、競争を促す、通貨制度の枠組みを用意する、技術独占に歯止めをかける、政府の介入が妥当と広く認められるほど重大な外部効果に対処する、狂人や子供など責任能力のない者を慈善事業や家族に代って保護する。(83-85)

ただ自由は、責任ある個人だけが要求できるものであるが、そこにはどこで線引きするかということを含めて本質的な曖昧さが潜んでいることに留意すべきである。「企業の自由」という時の「自由」は、アメリカでは、だれでも自由に企業を起こせる自由と了解されてきた。そして既存企業は、同じ値段で良い品を売るか同じ品を安く売る以外の手段で新規参入を締め出す自由はないものとされている。これに対してヨーロッパでは昔から、企業にはやりたいことをする自由があると考えられてきた。その自由の中には、協定を結んで値段やテリトリーを取り決めるなど、新たな競争相手を締め出す講じることも含まれたのである。(71-72)

法と秩序を維持する、財産権を明確に定める、財産権を含む経済のルールを修正できるようにする、ルールの解釈をめぐる紛争を解決する、契約が確実に履行される環境を整える、競争を促す、通貨制度の枠組みを用意する、技術独占に歯止めをかける、政府の介入が妥当と広く認められるほど重大な外部効果に対処する、狂人や子供など責任能力のない者を慈善事業や家族に代って保護する。

5・所得分配―平等とは何か
M.フリードマンは、市場経済における所得分配の原則は「各人へは、それぞれが所有する手段を使って生産したものに応じて行われる」ことだとし、これこそが「本当の意味で結果の平等」だと述べている。例えば、同程度の能力と手段を持ち合わせているが、一人は怠けるのが大好き、もう一人は商売熱心だとすると、この二人を平等に扱うためには市場を通じた稼ぎを不平等にしなければならない。また面白くやりがいのある仕事より辛い汚れ仕事に高い報酬を支払う必要がある。所得の差が職業や仕事の中味の差を埋め合わせていることになる。
つまり、各人を平等に扱うとは、人々の好みを満足させることだともいえる。ただ別の不平等がある。くじを買う人々の所得を事後的に再分配するのは、運試しというくじを買う行為そのものを否定することになる。職業選択やリスクの高い事業を選ぶといった行為は不確実性に対する各人の好みを反映するが、その行為が所得の不平等の原因となっている。もう一つが、生まれつき持っている不平等、つまり能力や相続財産に起因する不平等である。しかし、両親から素晴らしい美声を授かって巨万の富を稼いだり、両親から相続した財産で高収入を得るのは不当だといえる根拠はどこにもない。子供に資産を残してやりたいと思う金持ちの親にはいくつかの方法がある。資産を教育費に投じて公認会計士の資格を取らせる、あるいは事業を起こして後を継がせる、さらには信託基金を設定し利息や運用益が入るようにする。いずれの場合も収入が増えるだろうが、第一の方法は本人の能力による収入、第二が本人の働きによる利益と見なされるのに対し、第三の方法は相続財産による収入と見なされる。しかし、この三つを区別するまともな根拠は存在しないのである。自分の能力や才能で生み出した富は好きにしてよいし、自分で築き上げた富が生む利益も好き勝手にしてよいが、富を子供に譲るのは認められないというのは、つじつまが合わない。M.フリードマンは、「生産に応じた分配、その結果としての不平等の容認といった資本主義の原則に対して現在なされている反論には根拠がない」と述べている。

6・政府介入の現実と自由市場の意味
ソ連経済崩壊の30年前、本書が出版された当時は、「資本主義には欠陥がある。資本主義は人を幸福にしない。ひいては自由を妨げる。だから将来は、政治がもっと積極的に経済をコントロールすることに希望を託すしかない」という1920,30年代の圧倒的多数の知識人が抱いて考え方が根強く残っていた。政府の介入を有難がり、悪いことは全て市場のせいにする。そして新たな政府事業が提案されると、「私利私欲にとらわれず特別利益団体の圧力にも負けない有能な人間によって運営される」ことを疑う人は少なかったのである。小さな政府と自由企業の支持者は守勢に立たされていたのである。
しかし、数十年に及ぶ政府介入の実績が分析対象として取り上げることが可能になったところで、M.フリードマンはその政府介入、改革の評価を試みている。「ここ数十年間に政府が乗り出した新規事業の大半は、ことごとく失敗に終わっている。なるほどアメリカは進歩を続けてきた。衣食住は改善され、交通も便利になった。階級や社会的な格差は減ってきたし、少数民族が不利な扱いを受けることも少なくなってきた。また大衆文化が爆発的発展を遂げた。しかしこれらは全て、自由市場を通じて展開された個人の創意工夫や意欲の果実であって、政府の施策は少しも貢献しておらず、ただ邪魔しただけである。その邪魔をのり越えられたのは、市場には新しいものを生みだす途方もない力が備わっているからだ。見えざる手が進歩をもたらす力は、見える手が退歩をもたらす力に勝ったのである。
どれもこれも、当初の意図とは全然違う結果、それも大体は正反対の結果を招いているという結論を導き出したのである。(362)
彼は述べている。「政府の施策が持つ重大な欠陥は、公共の利益と称するものを追求するために、市民の直接的な利益反するような行動を各人に強いることだ。・・・人類が持っている最も強力で創造的な力の一つ、すなわち何百何千万の人々が自己の利益を追求する力、自己の価値観にしたがって生きようとする力の反撃に遭うのである。政府の施策がこうもたびたび正反対の結果を招く最大の原因は、ここにある。この力こそは自由社会が持つ大きな強みの一つであり、政府がいくら規制をしようとしても決して抑えることはできない。」(363)
*R.ハイルブローナーは、この政府の欠陥について、市場の持つ「ミクロの秩序」の欠落が原因であると述べ、」「経済活動の官僚化」という視点から解説を加えている。(R。ハイルブローナー、『二十一世紀の資本主義』ダイヤモンド社、第4章)

M.フリードマンが、過去数十年に実施された大改革の失敗例として挙げた事案は以下の通りである。
1)鉄道の規制・・・消費者を守るはずだったこの規制は、あっという間にトラックなど新たな参入者から鉄道を守る規制にすり替わってしまった。犠牲になったのは消費者である。
2)所得税…当初は税率も低かったこの税金は、のちに低所得層のために所得を再分配する手段として使われるようになった。この税金は一皮めくれば抜け穴や特別控除だらけであり、名目上は高い累進性もほとんど実効性をもたなくなっている。23・5%の一律課税を導入すれば、20-29%の累進課税になっている現行制度と同じだけの税収を確保できるはずである。また不平等をなくし富の分散を図るはずだった法人所得税は、実際には企業収益の再投資を促し、大企業の一層の発展を助け、資本市場の機能を妨げ、新規企業の設立を阻んでいる。
3)金融制度改革。経済活動と物価の安定をめざしたこの改革は、第一次大戦中と戦後のインフレを悪化させ、その後の経済情勢をかつてないほどまでに混乱させた。この改革で制定された連邦準備制度こそ、大幅な景気収縮程度で済んでいたはずものを1929-33年の悲劇的な大恐慌に変えた元凶である。銀行恐慌を防ぐための制度だったが、結果的にアメリカ史上最悪の銀行恐慌を招いた。
4)農業プログラム。貧しい農家を助け、農業につきものとされる変動制を解決するためのプログラムだったが、いまや国の恥というしかないものに成り下がっている。公的資金を垂れ流し、資源の活用に歪みを生じさせ、農家に対する締め付けは一段と厳しく、かつ微に入り細にわたるようになった。さらに外交政策にまで重大な影響を及ぼし、しかも肝心の貧しい農家は一向に救われていない。
5)公営住宅プログラム。貧困層の住宅事情を改善し、若年犯罪を減らし、スラム街の撤去をめざした事業だが、実際には貧困層の住宅事情を悪化させ、若年犯罪の増加を招き、都市の病巣を拡大しただけだった。
6)労働組合。1930年代は知識層にとって「労働者」と「労働組合」は同義語であり、清く正しい組合を恰も家族のように信頼した。そして組合を優遇し「公正な労使関係」を促進するための法律が広く施行され、組合は次第に強力な組織なっていった。すると50年代になる頃には、組合はもはや忌み嫌われる存在に堕してしまう。労働組合はもはや労働者と同義語ではなく、正義の味方だと考える人もいなくなった。
7)社会保障政策。一連の政策は困窮した人々への直接的な救済措置を不要にする目的で立案され、援助を受けることは権利と位置づけられた。そしていまでは数百万の人々が社会保障給付を受け取っている。だが生活保護の受給者は増える一方だし、救済措置拡大の一途をたどっている、(359-361)

7・おわりに
M.フリードマンの自由主義の原点回帰、新自由主義の主張は、発表されてから50年以上の年月が経つ現在も新鮮さを失わない。しかし、彼の立論が、個人の自由を最大限に尊重し、他の価値、例えば平等、規律と権威を「自由主義の副産物」と見立てる、アメリカ自由主義の伝統と文化を受け継いでいることを見逃してはならない。この点で、自由と平等を対置させるフランス自由主義、自由の価値を認めながらも権威主義と規律を重視するドイツなど、ヨーロッパの伝統と文化の多様性に留意しなければならない。近代化以前の封建時代に農民の家族制度の中に、後に「自由」という名称で表現されるようになる人間関係と価値観がどのように根付き文化を形成していたのか。この伝統を引き継いで近代社会に登場する自由の思想も社会の構成原理として多様化せざるを得なかったのである。
さらにいえば、M.フリードマンの「市場原理主義」ともいわれる自由と資本主義に対する絶対的信頼は、アメリカの近代化過程において、ヨーロッパと異なり民主主義が産業化に先行して確立したという歴史的条件を抜きにしては語れない。人々は経済の領域においても不公正であることを許容しなかった。経済民主主義である。またアメリカでは建国以来、マルクス主義の影響がほとんどなかったために大企業に対する反感がなかった。しかし、ヨーロッパではマルクス主義という共通の敵と戦うために自由主義と大企業は連携せざるを得なかったのであり、資本主義の修正を余儀なくされたのである。
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